アイデンティティ・クライシスに陥った

アイデンティ・クライシスとは

いい記事を見つけたのでアイデンティ・クライシスが何かについてはこれを読んでくれればいいと思う。要はアイデンティティの拡散である。

私のケース

留学によりアイデンティ・クライシスに陥ってしまったのである。

例を出そう。例えば私は日本に居たときはよく喋るほうだという他者評価を得ていた。その他者からのフィードバックを通じて自分の中にも「自分はよく喋るやつだ」というアイデンティティが確立されていた。

しかしアメリカではどうだろうか。コミュ強しかいないこの国では自分は「あまり喋らないやつだ」という評価を下されてしまうのである。

これにより長いことかけて培ってきた自分のアイデンティティと, 他者からみたアイデンティティとの間に齟齬が生じる。そうした他者からのフィードバックを異国の地で受け続け, アイデンティティ・クライシスに陥ってしまったのだと考えている。

アイデンティティは他人に対する相対評価で築くものではない

そう勘の良い方ならお気づきであろう。私のアイデンティティは大いに「他者との相対評価」に依存していたのである。

いいね!”求める時代-承認欲求と自己アイデンティティの不在』にもあるように, どうもこのアイデンティティの他者依存に苦しんでいる人はたくさんいるようだ。例えば『要らない人材の反逆』というNoteを書いている人は, 会社(=他者)にアイデンティティを全て委ねてしまった結果, 出世が見込めないとわかった瞬間に絶望している(その後立ち直ったようだが)。

思えば私の場合は日本にいる間は他者との相対評価による承認欲求で自分をごまかしていたのだと思う。しかし異国の地に来たことによって承認欲求が満たされなくなった結果, 自分を形成するアイデンティティの核が空虚であることに気づいてしまったのだと思う。

流行りのアドラー心理学では承認欲求に縛られることを否定している。これは承認欲求を自分の核に据えてしまうと, 他者の目を気にして自分の人生を生きられなくなってしまうからである。

アイデンティティを再構築する戦略

冒頭で紹介した記事にもあるように, アイデンティティを一度消失してから再構築した人は強くなれるらしい。

1. 他者評価が入らない形でアイデンティティを形成しなおす

一世を風靡した『嫌われる勇気』の主題であるアドラー心理学では承認欲求を否定している。嫌われる勇気を初めて呼んだのは5年以上前だったと思うが, その時は『個人的に友達と仲良くできたら嬉しいし, 誰かに褒められればもちろん嬉しい。承認欲求を捨てて本当に幸せなのかな』と懐疑的だったのだが, 今ならその意味がわかる。

アイデンティティを他者評価に委ねてしまうと, 自分の幸せが外環境の変化に対してロバストではなくなってしまうのだ。

例を出そう。例えばアイデンティティの核に「仕事をして出世する」を置いたとする。出世はどうしても社内人材と相対評価によるものである。そのため, うまくいかなかったときにアイデンティ・クライシスに陥る危険性がある。

しかし「成果の多寡は問わずとも, 私は仕事を頑張る人間である」という信念がアイデンティティの核(の一部)であったならば, たとえ出世できなかったとしても「仕事を頑張る人間である」というアイデンティティを保つことができる。

2. アイデンティティを多様化する

アイデンティ・クライシスを防ぐもう一つの手として, アイデンティティの多様化が上げられるだろう。

たとえば先の例で「成果の多寡は問わずとも, 私は仕事を頑張る人間である」というアイデンティティは他者評価に依存しないのですばらしい。しかしそんな絶対評価に基づくアイデンティティを核に置いたとしても, 病気や自己などで何らかの形で働けなくなってしまうことがあるかもしれない。

その場合, 多様なアイデンティティを確保できていれば, たとえそのうち一つを失ったとしてもアイデンティ・クライシスに陥らずにすむ。

資産運用の格言に”Don’t put all your eggs in one basket(卵は一つのカゴに盛るな)”というのがある. アイデンティティについても同じことが言えるだろう。リスク分散は大事ということだ。

恋愛におけるアイデンティ・クライシスについて考える

恋愛はもろに他者評価で決まるため, アイデンティ・クライシスに陥りやすい気がする。実際, 今回の私のアイデンティティ・クライシスの一因にフラれたことも関与している。

楽しい恋愛には自己受容が大事

「すべてはモテるためである」の二村氏は以下のようにインタビューで語っている。

「人はだれでも心に穴が空いています。ありのままの自分を受け入れる、つまり“自己受容”ができていないまま、他人に心の穴を埋めてもらいたくて恋をする。だからつらくなるんですよ」

出典:恋愛がうまくいかない原因はすべて母親!? ベストセラー『すべてはモテるためである』著者のAV監督・二村ヒトシインタビュー

つまりアイデンティティがあやふやなまま, 他者承認でアイデンティティを確立しようとするから苦しくなろうのだろう。ちなみにこれ, そのまんま僕である

楽しい恋愛には自分のアイデンティティをきちんと確立して, 自分の幸せを相手に委ねないことが大事ということだ。

自己受容することで自己受容してる相手にモテるようになる(かもしれない)

二村氏は著書「なぜモテないかというと、それは、あなたがキモチワルいからでしょう」と述べている。自分の心の穴を把握し, インチキ自己肯定をやめることでモテるようになるのだ, と説いている。

しかし僕はこれに対しては補足が必要だと思う。そもそも二村氏が著書の中で述べているように, 「ヤリチン」は概して自分の心の穴を把握しておらず相手の存在で自分の心を埋めてもらいたくてヤリチンになっているのだ。そしてヤリチンはヤリチンなので当然モテている

二村氏の著書に関して言及した「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」には以下のようにある。

自省的な恋愛論と恋愛工学のどちらが有効かについてはここでは深く検討しない。ただし、前者にあたる森岡著と二村著ともに、「恋愛対象となる候補者として女性の視野に入る」段階の説明が欠けていることは指摘しておきたい。その段階においては、そのほか大勢の男性の中から勇気をふるって一歩踏み出し、意中の女性に自身の印象を植え付けることが必要になる。一方で拒絶される リスクもある。このような行為は、上記の二著が男性に求める自省的な態度と齘齬がある

非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂

僕もこの言論に概ね同意であり, ちゃんと自己受容したからってモテるようになるとは限らないと思う。

インチキ自己肯定して女はモノ!ぐらいに扱ったほうが同じ様にアイデンティティを確立できていない女の子にはモテてしまうのではないか。だからヤリチンが居なくならないのだろう。

でも, ちゃんと自己肯定してアイデンティティを築けている女の子と長期的な関係を築きたい場合, 自分も確固たるアイデンティティを築く必要があると思う. これが二村氏の言いたかったことではないか.

テクニックで自分の空虚なアイデンティティを埋めたところで, 付き合いが長くなれば遅かれ早かれ自分の空虚なアイデンティティは見透かされてしまうのだ

恋愛工学でアイデンティティの空虚さは埋まらない

「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」にもあるように, 恋愛工学では女性の本能に対していかに魅力的に振る舞うかがひたすら研究されている。

恋愛は生殖活動という本能レベルの営みであるため, こうした本能に訴えかける魅力を高める必要があるのは否定できない事実だと思う。どうしても一緒になりたい相手がいる場合, こうした技術を使うことは悪いことだとは思わない。

ただ, 恋愛工学で推奨するように自分のアイデンティティの中心に「女にモテモテの俺」を置いてしまうとアイデンティ・クライシスに苦しむことになると思う。それは「モテる」が他者との相対評価に基づくものだからである。

元恋愛工学フォロワーだと思われるヒデヨシさんが

>個人的には、非モテコミットできるような人とうまく恋愛できたタイミングで、殺し合いの螺旋から降りるのが、一番幸せなように思います。

人生の節々でぶち当たる「モテの壁」」

と述べているように, 恋愛工学生は「モテまくってる俺」をアイデンティティの中心に置いてしまうと, モテたところでその内苦しむことになるのではないか。(ただし, ものすごい性欲が強くて沢山の女性と関係を持つことが本当にその人の幸福である、と胸を張って言える人なら別にいいと思う)

承認欲求を求めない恋愛のスタイルとは何なのか

個人的には「自分のあるがままの生き方」を追求しつつ, それをいいなあと思ってくれる人, さらに「相手のあるがままの生き方」がいいなあと思える人と出会えれば一番いいのだと思う。

ここでいうあるがままの生き方とは自堕落に生きるとかそういうことではなく, 人生において他者評価に依存しない自分だけの方向性を持ち, それを追求していくような生き方のことである。

もし二人の方向性がある程度一致しており, お互いのそうしたあるがままの生き方を尊敬できるのであれば, お互いに高めあえるような関係を築いて幸せになれるのではないだろうか。

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